びーとは、小さな頃からずっとその性格や振る舞いに一貫性がありましたね。元気いっぱいな男の子ではあるけれど、典型的な「男の子らしさ」という激しさや、争い事に飛び込むような面はほとんど見られません。
むしろ、争いを好まない、穏やかなタイプで、ケンカとも無縁。これって、昔からずっと変わらないんです。
よく大人しい子だと言われることもありますが、私の感覚ではそれとは少し違うんです。びーとは、引っ込み思案でもなく、恥ずかしがり屋というわけでもない。ただ、「必要ない」と判断したことはやらないという、冷静な一面があるんですよね。
無駄なことにエネルギーを使わない、そんな賢さが小さな頃から見え隠れしていたように思います。
さらに、びーとは先生や大人の言うことをきちんと聞いて、理解し、やってほしいことはしっかりやる。そして、やってはいけないことは避ける。そんな面もあり、先生にとっては「話の通じる子」、いわゆる「いい子」とされることが多かったですね。
幼稚園や小学校低学年の頃、他の子たちが元気いっぱいで時に手に負えなくなるような場面でも、びーとはその輪の中に入って騒ぎ立てるような子ではありませんでした。おそらく先生もそんなびーとの姿勢を見て、何かと彼を頼るようになったんだと思います。
例えば、発表会や運動会では「代表の言葉」や「号令をかける」など、びーとに任される役割がどんどん増えていきました。集団行動が苦手な子と手をつないで行動をサポートする場面もあり、自然と他の子どもたちのお手本のような存在になっていったんです。
親としても、発表会や運動会でびーとの出番が多いのは楽しみでした。競技のほかに、こうした役割を担う姿を見るのは、誇らしくもありましたね。
でも、ふとした時に気づいたことがあります。「これは本来、先生がすべきことなのでは?」と。実際、びーとに多くの責任を任せていたのは、先生の期待感が背景にあったからです。
「びーと君ならできるよね?」といった一言とともに、そこには言葉以上の期待がかけられていたんです。
子どもは先生から期待されると嬉しいし、その期待に応えようと一生懸命頑張りますよね。びーとも、その一生懸命さで先生の期待に応え続けていました。たとえそれが自分にとって負担や嫌なことであっても、「期待されることに応える」ことに価値を感じていたんだと思います。
先生の多くは、びーとの成長を願って、彼に任せることで伸ばそうと意図していたのだと信じたいですし、実際そういう先生がほとんどでした。でも、残念ながら、すべてがそうではありませんでした。
中には、びーとを「先生代わり」として使い、教室の平穏を守ろうとした先生がいたのです。本当にびーとの成長を願うのではなく、単に自分の負担を減らすために頼ってしまうような、そんな姿勢の先生もいたのです。
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